昨日は現在マイアミに住んでいる友人とZoom会議をしました。
二人とも日本が大好きで、日本文化について学んでいるそうです。
好きなものを聞くと、宮崎駿監督のアニメ、黒澤明の映画だと教えてくれました。
私からは、日本ではこの本が話題になっているよ、と「推し、燃ゆ」を紹介しました。
これから月に1回、オンラインで日本文化と日本語について教えることになりました。
さて、今回はその本の紹介です。
「推し、燃ゆ」 宇佐見りん著 河出書房新社
この本を読む前に新聞に掲載された宇佐見さんの長文エッセイを読みました。
21歳の大学生の書いたものとは思えませんでした。
それは単に文章力のことだけではありません。
対象のどこに着目するか、ということ。
自分ならではの視点で出来事を切り取る力があるということ。
何かを見たときに、その中から価値あるものを発見する力がある。
それが伝わってきたので驚きました。
この物語の主人公「あかり」は様々な「重さ」に苦しんでいます。
それに対して「推し」は軽い自由な存在として描かれます。
あかりと推しとの結びつきが強くなりそこに喜びを感じることの一方、あかりと実生活との軋轢は激しくなるばかりです。
「推しを推すこと」を生活の中心にして総てをそこに注ぐ。
「推し」を自分の「背骨」のように感じる。
もはやスターとファンの関係ではありません。
愛や信仰とも異なる何かが提示されますが、その解釈は読者に委ねられます。
宇佐見さんはインタビューで「自分の言葉で書く」ことを強く意識していたと語っています。
ここにはまぎれもない作家自身の言葉があります。
ピーターパンは劇中何度も、大人になんかなりたくない、と言う。冒険に出るときにも、冒険から帰ってウェンディたちをうちへ連れ戻すときにも言う。あたしは何かを叩き割られるみたいに、それを自分の一番深い場所で聞いた。昔から何気なく耳でなぞっていた言葉の羅列が新しく組み換えられる。大人になんかなりたくないよ。ネバーランドへ行こうよ。鼻の先に熱が集まった。あたしのための言葉だと思った。共鳴した喉が細く鳴る。目頭にも熱が溜まる。少年の赤い口から吐き出される言葉は、あたしの喉から同じ言葉を引きずり出そうとした。言葉のかわりに涙があふれた。重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする。同じものを抱える誰かの人影が、彼の小さな体を介して立ちのぼる。あたしは彼と繋がり、彼の向こうにいる、少なくない数の人間と繋がっていた。