「教員免許更新制度の廃止」のニュースが流れてきました。
以前からこの制度の問題点が指摘されていましたが、わたしが気になっていたのは、この制度の背後に「教員たたき」の思惑が隠れている気配を感じたからです。
この本の84ぺージに以下の記述があります。
金融危機以降、人々はなぜか教員などの社会に奉仕する職種の人々をバッシングするようになり、「子ども教えているだけなのにお金を貰いすぎ」などと言うようになった。これは自分の仕事が実はまったく無意味で、あってもなくても誰も困らないことを知っているからゆえに、意味のある仕事をしている人がいるとムカつきを感じるからではないかとグレーバーは言う。自分のやっていることが不必要と知りながら、上司の目を気にして早く帰れないから何かをしているふりをするなどして毎日無為に時間を過ごすことは、人間の生活をどれだけミゼラブルにするだろうと彼は説く。だから、「意味のある仕事をやっている人は、金銭報酬までいらないだろう」という倒錯した考え方になっているのではないかとグレーバーは言う。本書「第3章 経済にエンパシーを」より
「相手の身になって考えなさい」
30年以上教員をしてきて、この言葉を数えられないくらい子どもに言ってきました。
しかし、今しみじみ思います。
これは本当に難しいこと。
正直なところ、「この人に身になって考えることはできない」と思うことがあります。
教員というのは、とりあえず自分を棚に上げないとできない仕事です、と開き直ってしまいたくなります。けれども…。
まず区別したいのはシンパシーとエンパシー。
どちらも日本語では「共感」と訳すことができます。
しかし、シンパシーは「同情」「思いやり」であるのに対して、「エンパシー」は「意見の異なる相手を理解する知的能力」という意味になります。
そして、著者がこの本で提案しているのが「アナーキックエンパシー」です。
私はこれを柔軟性のあるエンパシーととらえました。
他者に共感することはよいことですが、ひとつの固定化された思想や価値観から抜け出せなくなることもあります。
本書にはその解決のヒントがたくさんありました。
これでまず思ったのは、レイシストの考えを「尊重」するのはエンパシーではないだろうということだった。他者の靴を履いてみたところで尊重する気になれない他者の考えや行為はある。エンパシーを働かせる側に、わたしはわたしであって、わたし自身を生きるというアナーキーな軸が入っていれば、ニーチェの言った「自己の喪失」は起きないので、どんな考えでも尊ぶ気にはならないだろう。そもそも、エモーショナル・エンパシー(共感)ではない、コグニティブ・エンパシー(他者の立場に立って想像してみる)のほうは(そして本書の大部分においてわたしはこちらについて語って来た)、その人に共感・共鳴しろという目標を掲げて他者の靴を履くわけではないから、その人の立場を想像してみたら(エンパシーを働かせてみたら)よけいに嫌いになったということも十分にあり得る。
しかし、それでも、誰かの靴を履いてみれば、つまり、その人がどうして自分には許せない行為をしたのか、どこから問題ある発言が出ているのかを想像してみれば、今後どうすればそのような行為を防げるか、または、どうすればその人自身の考えを少しでも変えることができるかを考案するための貴重な材料になる。これを怠ってずっと同じ批判の方法を取っていても(例えば、相手が間違っていることを示すデータを延々と突き付け続けるとか)あんまり効果は期待できないということは、近年の世界で生きている人なら誰しも気づいていることではなかろうか。 本書「あとがき」より