先週火曜日に2回目のワクチン接種をしました。
知人から翌日に熱が出たと聞いていたのですが、その通りになりました。
翌日午後に38度の熱が出ました。
2回目接種の翌日は予定を入れない方がいいようです。
「街場の芸術論」内田樹 青幻舎
「これこそ自分が本当に見たかった映画だ」と感激して、翌週に再び映画館に行きました。
この映画の何がそんなに自分を感動させるのだろうと、何度も考えました。
しかし、そのはっきりした答えを言葉にすることはできませんでした。
「風立ちぬ」の主人公「二郎」は飛行機開発に熱中する青年です。
彼は単に飛行機が好きだから、研究が好きだから仕事に取り組んでいます。
しかし、彼がつくった戦闘機は自国他国の多くの人の命を奪います。
宮崎監督は戦争を美化するのではなく、反戦を声高に訴えるのでもなく、大きな歴史に翻弄される人間の姿をそのまま提示します。
このテーマは普遍性があるので分かりやすい部分です。
けれどもそれだけではない何かがあると感じていました。
この映画が表現しているのは「空気」です。
それは戦前の日本にあって、戦後に消えてしまった豊かな時間の流れ。
家族、村などの共同体は、戦後の急速な工業化によって大きく変化しました。
ラフカディオハーンが「日本の面影」で描写したような細やかな感受性や気遣いは1945年を境に失われていきました。
それを、鮮やかに目の前に差し出してくれたのが宮崎駿。
自分が好きな小説、映画、音楽について語る。批評するというよりは一人のファンとして他の人に伝えたいことがあるから語る。それが内田樹の基本的な姿勢です。
内田さんの丁寧な解説を読みながら、何度も「なるほど」と頷きました。
宮崎が描きたかったのは、私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのものではなかったのか。
映画は明治末期の群馬県の農村の風景から始まって、関東大震災復興後の深川、三菱重工業の名古屋の社屋と工場、二郎たちが離れに住む黒川課長の旧家、各務原飛行場、二郎と菜緒子が出会う軽井沢村、八ヶ岳山麓療養所……を次々と細密に描き出す。
そのどれを見ても、私はため息をつかずにはいられない。
そうだ、日本はかつてこのように美しい国だったのだ。人々はこのようにゆったりと語っていたのだ。(「街場の芸術論」第3章宮崎駿『風立ちぬ』より)