「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」(梯久美子著)を読みました。
やなせたかし(柳瀬嵩)が生まれたのは1919年(大正8年)。5歳のときに朝日新聞の広東特派員として単身赴任していた父が死去。7歳のとき、母の再婚に伴い、伯父の家に引き取られます。1944年(昭和19年)、弟の千尋がフィリピン沖で戦死。二人はとても仲の良い兄弟でした。自分よりも性格がよく、成績も優秀な弟がなぜ先に死んでしまったのか、なぜ弟は死に、自分は生き残っているのか。嵩は深く苦しみました。弟の死のショックを乗り越えた頃に出会った女性、暢。嵩の妻となる暢は夫を戦争で亡くしています。その最愛の妻は、癌で闘病の末、1993年に死去。嵩は幼いころから何度も深い喪失感を味わい、苦難を乗り越えて生きてきました。それが自らの表現の根底にあることは間違ありません。
1940年、嵩は田邊元三郎商店(のちの田辺製薬)の宣伝部に勤務していましたが、1941年に陸軍に入隊。1945年の終戦は上海付近で迎えます。戦争によって「正義」がひっくり返って、嵩はむなしさでいっぱいでした。心は混乱して何も手につかなかったのですが、戦友に誘われて廃品回収の仕事をしているうちに少しずつ元気を取り戻します。1946年、高知新聞社に入社。1947年、三越百貨店宣伝部に勤務。漫画の仕事が増えてきたので、三越を退社して漫画家として独立。嵩は34歳になっていました。だが嵩はこれといった作品が描けず、ヒット作が出ません。年下の漫画家は売れていく中で、嵩だけが無名のままだったのです。器用なので、何でもできる嵩に注文は多かったようです。イラスト、ルポ、コラム、インタビューなどなんでも上手にこなしますが、むなしさが残ります。1960年代になると、漫画以外の様々な仕事を手がけるようになり、その中で多くの天才たちと出会います。嵩が詩を書き、いずみたくが曲をつけた「てのひらを太陽に」のヒット。立川談志と組んだテレビ番組出演。永六輔から依頼されたミュージカルの舞台装置。宮城まり子のリサイタルの構成。羽仁進のテレビ映画のシナリオ。向田邦子のエッセイの挿絵。手塚治虫の映画「千夜一夜物語」のキャラクターデザイン。などなど。アンパンマンがヒットして、テレビが全国放送となり、映画の第1作が公開された1989年、嵩は70歳になっていました。アンパンマンが成功したのは、それまでの様々な経験があったからでしょう。しかし、それよりも大きい理由は、いつも身近な人に親身に接し、地道に仕事をする姿勢だったと思います。アンパンマンのテーマは、生きるとは、命とは、愛とは何かということ。それは、やなせたかしが生涯を通して追求した問いでした。
