退職しない教員の実践アウトプット生活

教育、読書、映画、音楽の日々雑感

Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち

福岡東図書館の依頼を受けて、「じぶん本棚」コーナーの選書をしました。テーマは「おはよう、春樹さん」です。新作「夏帆」は、変化を続ける村上春樹にとって「新しい夜明け」のような作品です。小津安二郎が晩年に撮った「おはよう」に通じるユーモアを感じました。今回は「夏帆」の出版を祝って、村上春樹に関連する本を選んでいます。私が個人的に好きな小説、村上春樹に影響を与えた作家、類似点を感じる作品など様々です。それぞれの本にコメントを添えました。

 

「アメリカの鱒釣り」リチャード ブローティガン (著), 藤本 和子 (翻訳)

「アメリカの鱒釣り」は断章の連なりで構成されます。村上春樹の初期短編や「風の歌を聴け」も、短いエピソードの積層で世界を形づくる点が似ています。上質なセンチメンタリズム。

「スローターハウス5 」カート・ヴォネガット・ジュニア (著), 伊藤典夫 (翻訳)

映画版「スローターハウス5 」に流れるグレングールドのピアノ。グールドのバッハは、戦争の不条理を静かに見つめている。ヴォネガットの「So it goes.」村上春樹の「世界はそういうふうにできている。」

「モーツァルトを聴く人 谷川俊太郎詩集」谷川 俊太郎 (著)

谷川俊太郎の詩は、孤独を悲劇としてではなく、世界と自分がつながる静かな場所として描いています。村上春樹の語り手は、孤独は世界を受け取るための静かな器として描きます。二人は、文章を音楽のように書く人。

「本当の戦争の話をしよう」ティム・オブライエン (著), 村上 春樹 (翻訳)

「ねじまき鳥クロニクル」の戦争体験の語りは、事実と虚構の境界を揺らしながら物語の核になっている。戦争の記憶と個人の物語が交錯する構造は、オブライエンが描く物語に限りなく近い。

「彼女の思い出 逆さまの森」J・D・サリンジャー著 /金原瑞人訳

サリンジャーの語りは、口語的で軽やかだが、内面の揺れが行間に滲んでいる。村上春樹はその語りのリズムを翻訳を通して体得している。淡々とした語りの奥にある深い心の傷が切ない。

「卵を産めない郭公 」ジョン・ニコルズ (著), 村上 春樹 (翻訳)

映画「くちづけ」の原作。映画も素晴らしい。村上春樹の初期作品「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」など)と重なる作品。さりげない会話、何気ない風景のディテールが鮮やか。若者の心の揺れを淡々と描く語りは、ニコルズの「軽やかな観察のまなざし」と響き合う。

「シェルタリング・スカイ 」ポール ボウルズ (著), 大久保 康雄 (翻訳)

「シェルタリング・スカイ」は、北アフリカを旅する夫婦が、自分がどこにいるのか、何を求めているのか分からなくなる物語。村上春樹の主人公たちも、旅の途中で世界の輪郭が曖昧になる。「羊をめぐる冒険」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」など、「旅=自己の境界が溶ける場」として描く姿勢は、ボウルズの影響では?

「ささやかだけれど、役にたつこと」レイモンド カーヴァー (著), 村上 春樹 (翻訳)

「カーヴァーを訳すことで、自分の文体が変わった」と村上春樹は語っている。カーヴァーは、夫婦の会話、台所の風景、ふとした沈黙、といった日常の断片から、人生の核心を浮かび上がらせる。村上春樹の短編の静けさと余白は、カーヴァーの精神を日本語で再創造したように感じます。

「映画をめぐる冒険」村上 春樹 (著), 川本 三郎 (著)

村上春樹の「個人的な映画」に対して、川本三郎は「社会と文化の中の映画」を語っています。この二つが並ぶことで、映画が「個人の記憶」と「時代の記憶」をつなぐ装置であることが浮かび上がってきます。映画が単なる娯楽ではなく、人生の深層に触れる体験として立ち上がってきます。

「螢・納屋を焼く・その他の短編」村上 春樹 (著)

ここには、村上春樹の短編の核心がもっとも純度高く結晶しています。静けさ、喪失、余白、そして言葉にできない感情の揺れ。村上春樹文学の「原点」はここにあります。

「風の歌を聴け」村上 春樹 (著)

1979年当時、日本の文学にはほとんど存在しなかった軽やかで乾いた語り口。サリンジャー、カーヴァー、カポーティなどのアメリカ文学の影響を受けつつ、日本語としてまったく新しいリズムを生み出しています。余計な説明をしない。感情を過剰に語らない。風景や会話が淡々と流れる。なのに、胸の奥に熱い感情が残る。これを読んだときの衝撃は今も忘れられません。

「マイ・ロスト・シティ」フランシス・スコット フィッツジェラルド (著), 村上春樹翻訳

村上春樹はフィッツジェラルドを「自分の文学的血統の重要な祖先」と語っています。「マイ・ロスト・シティ」に漂っている繊細な哀感と都市の気配を、村上春樹は自らの作品世界に深く取り込んでいます。

「中国行きのスロウ・ボート」村上 春樹 (著)

「中国行きのスロウ・ボート」は、物語というより、記憶の散文詩のような作品です。静かな語り、ゆっくりとしたテンポ、余白の多い文章。ふとした描写が心に残ります。まるでジャズのバラードのように、読者の心に柔らかく響きます。

「三島由紀夫紀行文集」 佐藤 秀明 (編集)

「三島由紀夫紀行文集」は、旅の記憶を精密に言語化した作品です。村上春樹のエッセイ「遠い太鼓」「辺境・近境」なども、旅の記憶を静かに再構成しています。三島は、旅の記憶を「美の記憶」として保存し、村上は、旅の記憶を「静かな時間の記憶」として保存しています。記憶の扱い方は違いますが、旅を人生の核心として捉える姿勢には共通点を感じます。

「ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち」ポール・オースター (著), 村上春樹 (著), カズオ・イシグロ (著),

文学と人生について9人の作家たちが語ります。これほどおもしろいインタビューを他に知りません。何回も読んで音声でも聞けるので英語の勉強にもなります。

「4 3 2 1」ポール・オースター (著), 柴田 元幸 (翻訳)

「4 3 2 1」の翻訳者・柴田元幸は、村上春樹ともっとも親しいアメリカ文学の翻訳者であり、二人の文学的な橋渡し役。柴田元幸が訳すオースターのリズムは、村上春樹の日本語のリズムと非常に親和性が高いです。乾いた語り、余白の多い描写、感情を過剰に語らない、都市の静けさ。このアメリカ文学の静かなリズムを、村上春樹は自らの文体に取り込んでいます。

「クリスマスの思い出」トルーマン カポーティ (著), 山本 容子 (イラスト), 村上 春樹 (翻訳)

カポーティも村上春樹も、感情を直接語らず、行間にそっと置くタイプの作家です。「クリスマスの思い出」では、ケーキを焼く、木を飾る、手紙を書くといった静かな行為の積み重ねが、スークと少年の深い絆を浮かび上がらせています。静かな時間の中に、人間の本質をそっと置く語りが共通しています。 

「ソーンダーズ先生の小説教室」ジョージ・ソーンダーズ (著), 秋草俊一郎 (翻訳), 柳田麻里 (翻訳)

ソーンダーズは、トルストイの短編が「人間の倫理の揺らぎを、日常の行為の中にそっと置く」 と解説しています。村上春樹も、善悪の境界が曖昧な人物や、ふとした行為が人生を変える瞬間を描いています。「神の子どもたちはみな踊る」や「ねじまき鳥クロニクル」の人物造形は、トルストイ的な「人間の複雑さ」と地続きではないでしょうか。

「ビリー・サマーズ 」スティーヴン・キング (著), 白石 朗 (翻訳)

「ビリー・サマーズ」の主人公ビリーは、凄腕の殺し屋でありながら、ひとりで淡々と生活し、静かな時間を大切にする人物として描かれます。この姿は、村上春樹作品に頻出する「静かに暮らす男」像と重なります。キングと村上は作風こそ異なるものの、根底に流れる精神的背景には驚くほど重なる部分があります。

「急行 北極号」クリス・ヴァン・オールズバーグ (著), 村上 春樹 (翻訳)

これは単なるクリスマス絵本ではなく、「子ども時代の純粋さをどう受け継ぐか」という普遍的なテーマを静かに語る作品でもあります。村上春樹の訳は、過度に飾らず静かです。リズムがよく、絵の幻想性を損なっていません。村上春樹の翻訳絵本の中で一番好きな1冊です。

「白鶴亮翅」多和田 葉子 (著)

「白鶴亮翅」は、東プロイセンの歴史、戦後の移民、多文化社会の摩擦が描かれています。「負けた側の歴史」を語り直す幽霊のモチーフを扱い、歴史の影を丁寧に掘り起こす作品です。村上春樹も、阪神大震災、オウム事件、戦後日本の影など、社会の深層に潜む「語られない歴史」を作品に取り込んできました。多和田が語る「死人に口あり」という文学観(負けた側の歴史を語り直す)は、村上春樹の「声なき声を聴く」姿勢と響き合っています。

「耳の叔母」村田喜代子 (著)

「耳の叔母」は、ごく普通の風景の中に、説明できない「異質」が入り込みます。村上春樹の作品では、井戸、猫、見知らぬ電話など、日常の裂け目から「異界の気配」が忍び込む構造となっています。どちらも「日常の中にひそむ異質」を、過度に説明せず、静かに提示しています。この「余白の美学」は二人の共通点といえます。

「村上春樹研究: サンプリング、翻訳、アダプテーション、批評、研究の世界文学」横道 誠 (著)

村上春樹は、ジャズ、ロック、アメリカ文学、映画などを自在に「サンプリング」する作家です。横道誠は、このサンプリングを「村上春樹の創作方法そのもの」として捉え、どのように作品の質感を形づくっているかを丁寧に分析しています。横道誠の文章は、学術的でありながら読者を置き去りにしません。例示が豊富で、村上春樹への愛情がにじみ出ています。研究書でありながら「読み物としての面白さ」があります。

「詩人なんて呼ばれて」谷川 俊太郎 (著), 尾崎 真理子 (著)

谷川俊太郎は詩壇から距離を置き、村上春樹は文学界の「主流」から距離を置き、どちらも「自分の位置を自分で選ぶ」作家です。この距離感が、透明で静かな語り、過度に説明しない文体となっています。孤独な主体の立ち位置を生み出している点で、二人は深く響き合っています。

「同時代を生きる気分」川本 三郎 (著)

川本三郎は、60年代の政治運動の季節が終わり、70年代後半に「気分」「感覚」が文化の中心になると論じています。 村上春樹はまさにこの転換期に登場し、政治的言説ではなく、個人の感覚や都市の空気などの消費社会の軽やかさを描くことで、新しい文学の地平を開いたと述べています。川本は村上春樹を「時代の空白を引き受けた作家」として評価しています。

「村上春樹にご用心」内田 樹 (著)

内田樹は自らを「評論家ではなく、ファンであり崇拝者」と位置づけます。その「偏愛」が、むしろ作品の本質に迫る力を持っています。学術的厳密さと個人的情熱の絶妙なバランスがいい。

「村上春樹と私」ジェイ・ルービン (著)

ハーバード大学にいたルービン先生は学者である前に、まず村上作品の熱心な読者です。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで「度肝を抜かれた」瞬間から始まる物語は、私たちの読書体験と響き合います。

「言語表現法講義」加藤 典洋 (著)

大好きな本。何度も読み返しています。加藤は、文体とは「世界の見え方そのもの」であると説きます。村上春樹の文体は、まさに「世界の見え方を変えた文体」であり、加藤の評論と響き合います。

「Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち」辛島 デイヴィッド (著)

辛島の文章は学術的でありながら、どこか柔らかく、読者の体験に寄り添う語り口です。村上作品を読んだときの「自分の内側に静かな部屋ができるような感覚」を言語化しています。

ありくい完成 2026年8月1日

 

おはよう、春樹さん。

村上春樹の新作『夏帆』を読みました。

今回の作品では、若い女性の視点から世界が描かれることで、「傷つきやすさ」が物語の中心に据えられています。

夏帆は確かに傷つきやすい。しかし同時に、強く、しなやかな存在でもあります。

女性主人公の視点がもたらす新鮮さと、村上作品らしい幻想性は、やがて「母娘の物語」へと収束していきます。

夏帆という人物を通して、読者は「善悪の曖昧さ」や「家族の葛藤」といった普遍的なテーマを、より繊細で身体的な感覚として体験することになります。

物語には、ありくい、ジャガー、シロアリの女王といった異界的存在が登場します。

それらはすべて夏帆の内面や家族関係を象徴するメタファーとして機能しており、幻想と現実がゆるやかに交差する場をつくり出しています。

私が特に注目したのは、夏帆の叔父さんです。

村上作品には時折、こうした「どこか笑える人物」が登場しますが、この叔父さんの語りはまるで落語のようで、寅さんを思わせる軽妙さがあります。翻訳が難しいだろうと、つい余計な心配をしてしまいました。

この軽妙な感じ。私は、小津安二郎の晩年の作品を思い出しました。

長いキャリアの最後に、小津は重厚な家族劇から離れ、「おはよう」のような軽やかな映画を撮りました。

その軽さは単なるコメディではなく、長い人生を見つめ続けた末にたどり着いた「達観」のようなものです。

村上春樹も晩年に入り、重いテーマを扱いながらも、どこか「軽やかに笑う」境地に達しているように見えます。

「おはよう」の笑いが、戦後の住宅地の閉塞感や家族のすれ違いをそっと和らげたように、村上春樹のユーモアも、登場人物が抱える喪失や孤独を少しだけ軽くしてくれます。

ユーモアが「救い」として機能していること。それが、私のささやかな発見です。

制作中のありくいとジャガー 2026年7月25日

 

分断を越えて、同じ教室で

先日、6年生の学級に行きました。

担任が年休で不在のため、子どもたちが自習をきちんと進められているか見守るのが私の役目です。

図工の工作は前日の続きで、針金のハンドルを回すと箱から飛び出した棒が動く仕組みのおもちゃづくりでした。

三本の棒に動物や乗り物の絵を貼り付けると、それぞれがゆっくり動き出します。

落ち着きのある学級で、自分たちで声を掛け合いながら静かに学習を進めていました。

リーダー役の子はパキスタンにルーツを持つ子です。勉強が難しい子や、日本語がまだ十分に理解できない中国の子にそっと助言をしていました。

中休み、その子と少し話をしました。

「3年生の頃は、日本語でうまく伝えられなくて悔しい思いをしたことがあった」と教えてくれました。

4年生の運動会で応援団長の姿に感動し、それ以来、いつか自分もあの場所に立ちたいと努力を続けてきたそうです。

「学級リーダーになりたくて立候補したけど、1回目はなれなかった。でも2度目はなれたの」

そう言って、嬉しそうにウインクしてくれました。

 

この地区の市営住宅は外国人の受け入れを進めており、この学級も半数以上が外国にルーツを持つ子どもたちです。

日本で働く外国人に安価な公営住宅を提供することは良い取り組みだと思います。

しかし、昨今は外国人の増加をマイナスに捉える声が大きくなっていることが気になります。

外国人ばかりが優遇されているようには見えないのに、「公平ではない」と強く訴える人がいます。

本来は社会の仕組みや行政の改善が問われるべきなのに、不満が弱い立場の人へ向かっているように感じます。

権力者のごまかしには寛容なのに、理由があって優遇されている隣人には厳しいのは、なぜなのでしょう。

分断を乗り越えるためにできることを考えました。

こちらが正しいと説明するだけでは、相手は耳を傾けてくれません。

議論ではなく「会話」をする心構えで、相手の心の痛みに共感できれば、少しずつ分かり合えるかもしれません。

急がず、ゆっくりと「会話」を続けていきたいと思います。

外国から来た子どもたちも、日本の厳しい環境で育つ子どもたちも、どちらも笑顔で暮らせる明日が訪れますように。

資さんうどん「しあわせセット」 2026年7月18日

 

その先にお互いが共通の未来をぼんやり見ている

映画「急に具合が悪くなる」を見た。

理想の介護を実現しようと、ひたむきに働きすぎてしまうマリー=ルー。

限られた時間の中で多くの被介護者をケアしなければならず、一人ひとりに割ける時間はほんのわずかしかない。

時間をかければもっとよい介護ができると分かっている。学びを深めれば、さらに質を高められることも理解している。

しかし、そのための研修の時間すら取れない、それが現実だった。

その結果、彼女の心は折れそうになっていく。

この姿は、教育現場が直面している課題と重なる。

学級担任として夜遅くまで働いていたころの自分自身を思い出してしまった。

 

この映画では、ユマニチュードの技法がもたらすものを見ることができた。

不安に震える老人をケアするとき、

パニックになり大声をあげる自閉症の子を落ち着かせるとき、

ユマニチュードの技法が静かに、しかし確かに働いていた。

相手のそばへ行き、目を合わせて語りかける。

「あなたを尊重しています」と身体で伝える。

手を握り、そっと触れて安心させる。

今何が起きているのか、言葉で丁寧に説明し続ける。

かつて、暴れてしまう子どもをどう落ち着かせればよいのか途方に暮れていた自分を思い出した。

そのときに欲しかった「身体を通した相互理解」が、スクリーンの中で形になっていた。

 

原作は哲学者と人類学者の往復書簡。

映画では、ユマニチュードの実践が「抽象的な議論を身体のレベルで体験させる場面」として機能していた。

観客は、言葉だけでは届かない領域にまで、まるで触れ合うように理解を深めていく。

ケアの場面が、抽象的な哲学的対話を、身体性を伴った相互理解へと高めていた。

人と人は、このような形で深く分かり合うことができる。

その過程を、映画は静かに、力強く示していた。

福岡市東区 2026年6月23日

 

風立ちぬ、いざ生きめやも

『台湾漫遊鉄道のふたり』(楊双子 著、三浦裕子 訳)を読みました。

この小説は、1938年の台湾を舞台に、日本人作家・青山千鶴子と台湾人通訳・王千鶴が鉄道で島を巡りながら、食と歴史、そして“ふたりの関係”を丁寧に描いた作品です。

台湾料理の豊かな描写と、植民地期の複雑な人間関係が重なり合い、切なさが胸に残ります。全米図書賞翻訳文学部門や日本翻訳大賞などを受賞し、近年大きな話題となっています。

章立ては台湾の宴席料理十二品になぞらえた十二章構成で、料理が物語の進行とふたりの距離の変化を象徴します。鉄道の揺れ、屋台の匂い、台風前の湿った空気まで感じられるほどの臨場感があり、読者は旅の空気をそのまま吸い込むように読み進めることができます。

読み終えて、私は映画『風立ちぬ』を思い出しました。二つの作品を結ぶ“何か”について、しばし考えてみました。

『風立ちぬ』では、堀越二郎は菜穂子を深く愛しながらも、飛行機への情熱が彼女との時間を奪っていきます。戦争という時代、そして病。生きる歓びと喪失が同時に訪れる世界です。

『台湾漫遊鉄道のふたり』では、青山千鶴子は王千鶴に惹かれながらも、植民地支配という構造がふたりの距離を決して縮めさせません。旅の終わりが近づくほど、「もし別の時代に生まれていたら」という届かない願いが濃くなる。心が触れそうで触れない――歴史が恋愛の行く末を決めてしまう世界です。

『風立ちぬ』では、草原の風、軽井沢の光、菜穂子の微笑みが、すべて“消えてしまうからこそ美しい”。

『台湾漫遊鉄道のふたり』では、鉄道の窓から流れる台湾の風景、屋台の匂い、宴席のざわめきが、ふたりの関係が永遠ではないことをそっと予感させます。

『風立ちぬ』のノスタルジーは、大正〜昭和初期の日本の空気感。失われた“理想”への郷愁、若さの輝きとその儚さ。

『台湾漫遊鉄道のふたり』は、1938年の台湾という、もう戻れない世界。文化の混じり合いと、消えていった街の匂い。そして、ふたりが共有した一瞬の親密さ。

二つの物語は“風”のように似ています。

美しい時間ほど短く、旅と風景が感情を語り、届かない思いが静かに物語を照らす。

自分の生涯で、あのときほど強く相手への想いを抱いたことはない――それは決して届かないと分かっていた。

そんな感情の余韻が、二つの作品に共通して流れています。

『台湾漫遊鉄道のふたり』は、『風立ちぬ』のように、読後に胸の奥でそっと風が吹くような作品でした。

2026年7月3日 福岡市

 

一緒に歌ってくれないか 自由に捧ぐこの歌を

小沼ようすけさんと井上銘さんのライブを、水俣市のtojiyaで聴きました。

ジャズギタリスト2人による共演ですが、彼らの音楽世界は大きく広がっていて、とても「ジャズ」という枠だけには収まりません。

テリー・ライリーを思わせるミニマル・ミュージックのような反復から始まり、エフェクターを使ってメロディやリズムを重ね、その上に即興が自由に漂っていきます。

ジム・ホールやラリー・カールトンの響きがふっと立ち上がったかと思えば、風のささやきや鳥の声のように聞こえる瞬間もありました。

静と動、緩急の対比。激しい嵐のあとに訪れる、息をひそめるような静寂。

なんと豊かな音の世界だったことでしょう。

 

コンサートの最後は、ボブ・マーリーの「Redemption Song」。

その日の午後に訪れた水俣病資料館の、いちばん最後の部屋で見た写真がふっと浮かびました。

壁一面を埋め尽くすスナップ写真。

旅行の記念写真、何かの節目の日に撮った写真、笑顔、緊張した表情。

どれも一人一人の、かけがえのない人生の一瞬でした。

 

現在の水俣の海の写真も多数ありました。

澄んだ海水、多くの生き物たち。

今の水俣は、環境の大切さを世界に発信する町になっています。

 

「俺たちはこの時代に 前に進む 誇り高く」

Redemption Songの一節が、静かに胸に響き続けています。

水俣市 2026年6月28日

 

不完全なまま生きていく とびこめ

T先生が亡くなられて、もう七年になります。

T先生は福岡市の国語教育を長年リードし、その発展に大きく寄与された大先輩でした。

私がとりわけ記憶しているのは、「とびこめ」(トルストイ)の授業後に行われた協議会でのことです。

「とびこめ」は、次のような物語です。

船での航海中、船長の息子(12歳)が、船に飼われていた猿に帽子を奪われます。

猿はマストをするすると登り、少年をからかう。

周囲の大人たちが笑うため、少年は引っ込みがつかず、怒りにまかせてマストを登り始めてしまう。

やがて少年は、甲板からはるか高い帆げたの上を、命綱もなく歩くという危険な状況に追い込まれます。

そのとき船長である父親は叫びます。

「海へ飛び込め! 飛び込まないと撃つぞ!」

少年は恐怖の中で海へ飛び込み、船員たちの救助によって一命を取りとめます。

当時の私は、トルストイの人と作品についてある程度知っていたこともあり、この作品が道徳的・教訓的な色合いを強く持つ点に批判的な意見を述べました。

そのときのT先生の、「お前は分かっていないなあ……」とでも言いたげな、静かなまなざしを今も覚えています。

この数年、私はトルストイを再読しています。

読み返して気づくのは、トルストイの文学では、読者は単に物語を追うのではなく、登場人物となって人生を体験する ということです。

そこでは、因果関係が単なる説明ではなく、出来事に意義を与える装置 となっています。

「なぜ少年は高所へ登ってしまったのか」

「なぜ父親は『飛び込め』と言ったのか」

連続する出来事の関係性をたどるうちに、読者は物語を読み終えてふと気づきます。

自分がいつも正しいわけではない。

人間には不完全なところがある。

しかし、それでも少しは変わることができる。

自分もこれから生きていけそうだ――と。

ジョージ・ソーンダーズはこう述べています。

「小説の真の美しさは、見かけ上の結論なんかではなく、その過程で読者に起きる心の変化にある」

まさにその通りだと感じます。

T先生と、トルストイについてもっと語り合う時間がほしかった。

今になって、あのときのT先生のまなざしの意味が、少しだけ分かる気がしています。

京都 2026年5月4日