退職教員の実践アウトプット生活

教育、読書、映画、音楽の日々雑感

街とその不確かな壁

シアトルに住む長女から写真が届いた。

「このオジサンはどこかで見たことある。父が好きなミュージシャンに違いない」

さすが我が娘、覚えていてくれてありがとう。

この人はロックギターの神様、ジミ・ヘンドリックスだよ。

ロックの聖地へ父も飛びたい!

 

キースジャレットの「ケルンコンサート」のような物語

 

キースジャレットはソロピアノの素晴らしいアルバムを何枚も残している。それは、全くの即興演奏で、メロディも構成もその時その場のインスピレーションによって生まれたもの。1976年の来日公演の際、ライブレコーディングの音響を担当した菅野沖彦は、「本当に何も準備していないのか。スケッチのようなものも用意しないのか」と何度も尋ねた、キースは「何も用意しない」ときっぱり答えた。

 

村上春樹に対しても同じような質問が繰り返されている。村上は、「小説の執筆では、事前に細かな構想を立てることはしない」とインタビューで答えている。「結末が分かっていては面白くない。この後どうなるのだろう、と自分も楽しみながら書いている」と。書き上げた小説を何度も推敲することはよく知られているが、とにかく初めは終わりを決めないまま書いている。ジャズのインプロビゼーションのように。

 

キースのピアノにはバッハやモーツァルトのような古典から、ドビュッシー、ラベル、そして現代音楽までの影響が聴き取れる。もちろん基本にあるのはラグタイムからビバップ、フリーまでのジャズ。ディランの曲をカバーしたこともある。それらの音が、独自の手法で溶け合い、せつなく美しい長編詩のように綴られている。

 

村上さんは、キースジャレットとの共通点など語られるのは嫌な気分かもしれない。ジャズを誰よりも愛する村上春樹だが、キースについてあまり語っていない。だぶんあまり好きではないのでしょう。すみません村上さん、勝手に結び付けて。しかし今度の「街とその不確かな壁」も最高でした。村上春樹は私の一番好きな作家です。

 

「Turn! Turn! Turn! ターン ターン ターン」東山彰良

この本の冒頭で、ザ・バーズの「Turn! Turn! Turn!」の歌詞が紹介されている。

 

生まれる時、死ぬ時

植える時、刈り取る時

殺す時、癒す時

笑う時、泣く時

あらゆる物事には時機があり

天の下、全ての目的にはそれにふさわしい時がある

 

旧約聖書の「コへレトの言葉」の引用。

タイミング、好機…。振り返ると、失敗したことばかり思い出される。

しかし、案外、「運が良かったのかもしれない」とも思う。

66まで生きて、毎日の生活が充実していれば、文句は言えないだろう。

 

この本には、東山さんの旅、文学、音楽などについての思いが、まるで友人に語るように綴られている。

作家の目的地は、台湾、広島、ハワイ、小値賀島、延岡…。

東山さんの文章は、時に自分の傷をさらけ出すこともあれば、小説家として生きる強い決意の表明もある。

私には、同じ福岡に住んでいるということ以上の親しみを感じる。旅を通した作家の思いは直球で私の心に届いた。

 

韓ドラが好きだった教授のこと

先日、妻の買い物を待っている間、モールの駐車場でラジオをつけた。

流れてきたのは坂本龍一の声。

今年の1月、ニューイヤースペシャルの再放送だった。

病の進行は彼の体力を奪い、それがラジオの向こうの声に表れていた。

番組の終わりに話したのは、韓ドラ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」の次のシーズンを楽しみにしていること。

「それでは、来年のニューイヤースペシャルで会いましょう」の言葉が切なかった。

1980年4月5日、初めて教授を見た福岡市民会館YMO

坂本バンドを見たのは1982年11月27日福岡南市民センター。

これから私たちは坂本龍一のいない世界を生きていかなくてはならない。

新宿DUG 2023年3月

 

葉山 2023年春

退職して7年目の春。今年度もフルタイムで働くことになった。6名の1年次教員の支援をする。

4名は講師経験あり、2名は3月に大学を卒業したばかり。1年後に「教師になってよかった」と思える研修にしたい。

神奈川県立近代美術館から見える葉山の海

旅行2日目は葉山へ。

横浜から列車で30分ほどで鎌倉、次が逗子、そこからバスで20分で葉山の神奈川近代美術館へ到着。

バスの窓から見るとこのあたりはまだ古い建物が残っていて、何となく嬉しくなる。

道沿いに「日陰茶屋」という看板が見えた。「えっ?あの大杉栄の…」

美術館は横尾龍彦展が開催中だった。

「名前は聞いたことがある」くらいだったけど楽しめた。

初期は聖書や神話に着想を得た幻想画。次は青を基調とした抽象画。後期は書のような作品。

常に新しい表現を求めて変化を続ける姿勢に驚かされる。

山口蓬春のアトリエ

次の目的地は赤瀬川原平さんの本でチェックしておいた山口蓬春記念館へ。

ここは著名な日本画家山口蓬春の自宅兼アトリエがそのまま美術館として公開されている。

絵を鑑賞しながら戦前、戦中、戦後の昭和という時代を生きた画家の一生をたどることができる。

JR東海の財団から支援を受けて、家も庭もよく手入れされている。

蓬春の友人の建築家によるこの家は、和の様式でありながら機能的で美しい。

友人を招いて会食することも多かったらしい。

映画監督の小津安二郎とも交流があった山口画伯。

ということはここに小津も来ていたのだろうか。

部屋や庭を見て回りながら、映画のシーンや子どもの頃の記憶が浮かんでは消えていった。

蓬春記念館の庭



 

横浜 2023年春

海の見えるカフェ 横浜2023年3月

横浜1日目は中華街と山下公園の花見。

YOKOHAMA AIR CABINにも乗った。街中から海までをつなぐロープウェイですね。

レストランで夕食を済ませた時間だったので、美しい夜景を見ることができました。

ここの巨大な観覧車は花火のような光を楽しめます。

福岡市も少し前にロープウェイを造る計画がありましたね。

きっとこんなのをつくりたかったのでしょう。

でも、やっぱりいらないかなあ…。

ロープウェイからの夜景 横浜2023年3月

 

椎名誠は寅さんだった 「失踪願望。」

「シーナ誠を読んでいる」と知人に言ったら3人が3人とも「ああ、この頃死んだ人?」と返してきた。

鮎川誠と間違えないでほしい。

 

「失踪願望。」を読んでいる。椎名誠を読むのは久しぶりだがやはりおもしろい。この本は日記形式でコロナ禍のシーナの日常が描かれている。妻、子、孫、友人たちについて、いつもの「よろこびのビール」的なドタバタ生活が読んでいて心地よい。しかしそれだけではない。

足腰も衰えはじめ、運転免許証を返納したり、白内障の手術をしたり、シーナは老いと向かい合っている。昔を振り返ることも多い。若い頃に、妻である一枝さんの実家の庭に山から掘ってきたモミジの木を植えたこと、同じくテレビをプレゼントしたことなど(後で望まれてなかったことを知る)。今振り返ると、「あれはよくなかった…」と後悔することも心に浮かんでくる。自分もあるなあ。

椎名誠は寅さんの大ファン。このドタバタは「男はつらいよ」に重なる。そういえば、大すきな「岳物語」も山田洋次の風景に近い。この本を読み終わったら、「男はつらいよ」を見よう。

 

金のおの、ソール・ライター、野原

1年生の道徳「金のおの」を参観。自分でおのを池に落とした2番目の男は「自分が落としたのは金のおのです」と嘘をついたので、女神はそのまま何も言わずに消えてしまいます。その男の気持ちを吹き出しに書かせると、「せめてじぶんのおのだけはかえしてほしい」を発見。1年生最高!

大宰府の梅 2023年2月23日

福岡市美術館で「永遠のソール・ライター」を観ました。「これ、撮影、失敗しとっちゃない」「これはほとんど盗撮やね」という妻のつっこみを聞きながら楽しく鑑賞しました。

ソール・ライターは絵画も描いていました。画面構成は、抽象絵画の技法を写真に転移させたものだと感じました。

後に心を病んで施設で一生を終えたという妹デボラの眼差し、恋人ソームズ・バンドリーのスナップが印象に残りました。極私的な作品が逆に普遍性を持つということでしょうか。

 

「野原」ローベルト・ゼーターラー著 浅井晶子訳

 

ひとつひとつの声がもう一度聞く耳を得たらどうなるだろうと、男は想像してみた。もちろん、それらの声は人生について語るだろう。人はもしかして、死を経験しあとでなければ、己の生について決定的な判断を下すことはできないのではないかと、男は思った。 「野原」より

 

人生とは? 

これだ!という答えは出ませんが、これではないだろう、とは言えそうです。世の中に役に立つことをした人だけが認められるわけではないでしょう。役に立ったとか、良いことをしたとか、そんなものさしだけで人生を測ることはできません。では、人生とは?

 

「野原」を読みました。小さな町の「野原」と呼ばれる墓所に毎日やってくる老人。そこで老人は死者たちの声を聞く。家族へ、恋人へ語るのは、心の傷、切ない愛情、感謝、情熱とあきらめ。読み進めるうちに、29人の死者たちの関係も少しずつ明らかになってきます。

 

全体として静かな語り口ですが、ときに鋭く刺す言葉もあります。しかし、読者はここに善悪を超えた人生の何かを感じることができます。どんな人生にもそれぞれの価値がある。死者たちの本音の言葉は読者に人間の尊厳について考えさせます。1ページ読んだだけで、よい小説だ、と感じるときがあります。自分がまだ知らない世界を見せてくれる作品。驚きと意外性、ユーモアがあり、冷徹だが温かさが伝わってくる文章。私はこの小説が好きです。

 

忘れろと言えば、酒について世間が言うことも忘れろ。酒を飲めば気持ちがいい。自分が持っている以上の力を出せるときもある。それに、必要なときには気持ちを落ち着けてくれる。酒は悪魔じゃない。夏の夜にお前の部屋に飛んできて、眠りにつくのを邪魔する太った蠅のほうこそ悪魔だろう。酒は単なる化合物で、自分でちゃんとコントロールできる可能性だって、なくはないんだ。だがな、酒場のカウンターに座っているときに、壁の化粧張りが生きて動きはじめたり、スツールの下を小動物が通り過ぎるのが見えたりしたら、そのときはもう一杯頼め。どうせもう同じことだからな。

 

言ってみろ、 愛してる! って。わかってる、お前の耳には、馬鹿みたいで噓くさく響くだろうな。でも、相手の耳にはそうは響かないんだ。俺は一度も言ったことがない。どうしてだかはわからん。言えなかったんだ。いろんな人に、言ってくれって頼まれたよ。期待された。要求された。何度も、何度も。でも俺は言えなかった。相手からは、しょっちゅう言ってきた  愛してる! ってな。で、相手も同じ言葉を俺から聞きたがった。俺は、愛は物々交換じゃないっていう意見で、だから言わなかった。ただの一度も。で、かなり確かなのは、俺がやっちまったなかでもそれが一番大きな失敗だったってことだ。 「野原」より



誰も奪えぬこの想い 「この世の喜びよ」(井戸川射子)

私の愛聴盤「エラ&ルイ」(エラ・フィッツジェラルドルイ・アームストロングのデュエット)。その中でも一番好きなのが「誰も奪えぬこの想い(They Can't Take That Away from Me)」。思い出とは不思議なもので、大きな出来事よりも日常の何気ないことの方が強く残ることがある。お茶の飲み方、音程のはずれた歌、笑顔…。そんな小さなことが忘れられないことがありますよね。

 

「この世の喜びよ」(井戸川射子)を読んだ。毎日の生活の中で現れては消えていく記憶が語られている。小説というか長い詩のようだ。

 

ショッピングセンターで働く中年女性、子どもはもう働き始めている。ふとしたきっかけで知り合った女子中学生との交流。その子には小さい弟がいて、世話をさせられている。女性は話しながら、自分の子どもがまだ小さかった頃の子育てを思い出す。

 

ゲームセンターで働く青年。いつも来ているおじいさん。言葉を交わしながら彼女の心には様々なことがよみがえる。ささやかな喜び、失ったものへの悲しみ。まだ輝いて見えるものもあれば、もう消えてしまったものもある。読み終わって記憶について考えた。普段の何気ないことの中に愛すべきものがある。

 

娘たちが大きくなる前、驚くほど近くにある時には、これがこの世の全てというくらいに肌を擦り合わせた。あの頃は床や地面ばかりを見ていた。砂場の砂にフンが入っていないか、こねくり回して確かめた、一度、カッターの刃が交ざっていた。三人で布団を並べて、あなたは寝転ぶ時には腕と足を少し広げ、左右対称にした姿勢でないと気持ち悪いのに、娘たちがそうはさせてくれなかった。朝起きれば生臭い息を吐きながら、笑って転がり合っていた。咳き込む体を抱けばバネの力を感じた。気の毒に、とあなたは折り重なって眠っていた時の自分に向け微笑んだ。でも、寝ぼけたまま笑っている娘たちを両脇に抱え、明るくなっていく窓を眺めるのは、今でも思い出すほど良かった。南向きの小窓、それは磨りガラスなので朝日がぼんやりと入り、毛布で作った上着を着た二人はぶ厚く温かく、下の娘は寝起きはずっと笑顔で、どんなにまとわりつかれても寝ている姿勢なら、あなたは倒れたりしない。(「この世の喜びよ」井戸川射子著より)