退職教員の実践アウトプット生活

教育、読書、映画、音楽の日々雑感

「開高健は何をどう読み血肉としたか」菊池治男著

今日は大晦日

パンデミックの1年、2020年もとうとう終わります。

しかし、この息苦しさはいつまで続くのでしょう。

これから今年最後の夕食の鶏鍋をつつきながら、家族で紅白歌合戦を見ます。

普段はテレビをほとんど見ないので、ここではじめて流行った歌とその歌手が一致します。

11時からは村上春樹のラジオを聴きながら年越しの予定です。

皆さんもよいお年をお迎えください。

 

開高健は何をどう読み血肉としたか」菊池治男著 河出書房新社

 

開高健は大好きな作家の一人です。

「裸の王様」「輝ける闇」「夏の闇」「玉、砕ける」「珠玉」などを読みました。

この本の著者、菊池治男は編集者です。「オーパ!」のブラジル・アマゾンの他、アラスカ、カリフォルニア、カナダ、スリランカ、モンゴルなど、開高の取材に同行しています。

開高の亡くなった後、彼が残した大量の書籍をもとにして、その創作の経過をたどったのがこの記録です。

もちろん、開高との旅のエピソードも聞かせてもらえます。

ファンとしては羨ましい限りです。

読みながら、自分はどうして開高の作品に惹かれるのだろうか、と考えました。

その答えの一つは見つかりました。

 

・・・私はE・H・カーの「カール・マルクス伝」の愛読者でもあるが、モオリヤックの「テレーズ・デケイルウ」の愛読者でもある。梶井基次郎の読者でもあるが、同時に魯迅の読者でもある。チェーホフに耽ったかと思うと、スノーの「中国の赤い星」にも打たれた。これはルポルタージュだけれど立派な文学である。簡潔で、活力に富み、苛烈悲惨な現実を見ながらユーモアを忘れず、十の力を一に使ったイマージュの鮮やかさが忘れられない。けれど、同時に、その私は、無思想、無理想の大空位時代、ロシヤ帝政末期のチェーホフのわびしい微笑にも共感するものをおぼえるのである。

 こういう自分を軽薄だと思って、ある頃、私は腹をたて、中島敦の自嘲をそのまま擬し、愛想をつかした。自分が矛盾の束であることを発見して、しかもそのそれぞれの矛盾がどうにも拒みようがない密度をもって訴え、迫ってくる事実は認めざるを得ないので、とうとう、中島敦の言葉を借りると、そのような自分の愚かしさに殉じてその都度の愚かしさの濃厚の度に応じて生きていくよりしょうがないのではないかと考えたことがあった。そうではないか。カーの読者がなぜモオリヤックに打たれるのか。梶井基次郎のファンがどうして同時に魯迅のファンであり得るのか。スノーを賞賛するがなぜ言葉をひるがえしてチェーホフを賞賛するのか。“矛盾の束”という表現のほかになにがあり得ようか。「心はさびしき狩人」開高健1960年

 

そうか「矛盾の束」。

本を読む喜びの一つは、自分が確かに感じているのだけれど、まだそれ何なのか言葉にできないものを、「あなたが感じているのはこれですよね」と差し出してもらうことです。

私もまた「矛盾の束」であることに気づきました。

菊池さんの案内で、開高作品の深い輝きを再度発見できました。

全ての作品を読み返すのが楽しみです。

菊池さん、ありがとうございます。

f:id:shinichi-matsufuji:20201231180401j:plain