退職教員の実践アウトプット生活

教育、読書、映画、音楽の日々雑感

愛にイナズマ

先週は約30年前の教え子たちとの飲み会でした。みんなもう40代半ば。このクラスはとても仲が良く、今でも半数以上のメンバーが連絡を取り合って。時々集まっています。やんちゃだったYくんは数年前から焼き鳥屋をしていたのですが、お客が少ないようで心配してました。今は、起業した会社が成功したFくんの紹介で始めた定食屋が順調だそうです。同じクラスのつながりで助け合って生きていく仲間たち。元担任として嬉しい限りです。

 

映画「愛にイナズマ」

舟を編む」「月」の石井裕也監督の作品。期待通りの力作でした。私は普通のハッピーエンドではない映画を観たいと思っています。予想外の展開を期待しています。つまり、こんな映画は見たことない、という驚きを求めているのです。そんな人はきっとこの映画が好きだと思います。

人と人の関係は難しいものです。言わなくてはいけないことがどうしても言えなかったり、言わなくてもいいことをつい言ってしまったり。空気を読めない人がいたり、空気を読みすぎて身動きとれなくなっていたり。空気は読んでいますよ。でも、私は従いません。それもいいではないですか。今の世の中、空気を読んで黙ってしまう人間ばかり。

映画は虚構の世界。だけど現実の世界では見ることができない真実を目撃することもあります。この映画で壊れかけた家族が再生する様子を見て私は少し泣いた。

 

「幸福人フー」坂口恭平著

これは坂口さんが幸福とは何かを書いた本。坂口さんが人生ではじめて会った幸福な人が奥さんのフーちゃん。だからこの本は坂口さんが幸福について研究するため、フーちゃんにインタビューした内容になっています。

坂口さんは躁鬱病で、鬱の時は暗く不安で自分を否定してしまう。躁のときは気分が大きくなってお金を困っている人にあげてしまう。奥さんは普通は困りますよね。でもそうじゃない。これだけ聞いても何だかいい感じです。

私はウディ・アレン監督主演の映画「アニーホール」を思い出しました。ウディの私小説的な映画です。彼ははじめ、自分と似たタイプの女性と一緒になります。しかし、上手くいきません。その後、彼はアニーと出合います。アニーは自分と全く違う性格、どちらかと言えば正反対です。しかし、ウディはアニーといると幸せを感じます。不思議ですね。いや、そういうものなのでしょう。

何だか、コミュニケーションの秘密みたいなことを感じます。普通は考え方や価値観が同じ方が人間同士はいい関係ができそうです。そういう場合もあるでしょうが、違いがある方がいいこともある。そういうことです。

僕は幸福人にはなれないと思います。フーちゃんはネイティブ幸福人ですが、その反芻のしなさ、過去に一切囚われない、未来への不安のなさ、もうそれには歯が立ちませんし、数年かけたとしても、同じ思考回路になるのは無理です。そう書くと、またフーちゃんが笑うでしょう。「あなたはあなたのいいところがあって、私には私のいいところがあるんだから、あなたは私にはなれないし、もしなっても退屈して死んでしまうよ」と。(第八回 平凡な穏やかさ より)

「幸福人フー」 目次

第一回 幸福な人

第二回 フーちゃん語法

第三回 不安ゼロの人

第四回 思ってもいないようなことを口にしない方法

第五回 フーちゃんの目、躁の僕と鬱の僕の和解

第六回 躁状態の僕に対する工夫、フーちゃんの挑戦

第七回 「今までの自分」を叱らない

第八回 平凡な穏やかさ

「幸福人フー」を読んで フーより



 

愛と絶望のコリア記

   今日は国語研究会の先輩K先生のコンサート。会場はアクロス福岡シンフォニーホールです。プログラムはヘンデルメサイア。喜びと悲しみ、光と影、ヘンデルの世界へ深く引き込まれました。ハレルヤ。

「愛と絶望のコリア記 地方記者が見つめ続けた韓国」藤井通彦著 海鳥社

この10年ほど毎年韓国に行ってます。釜山に住むS校長先生は私の最も親しい友人の一人です。S校長先生と話すのは、韓国と日本の文化の違いについて。驚くことや考えさせられることが多く、興味は尽きません。韓国についてもっと知りたい、という気持ちはずっと続いています。

この本の著者は韓国での勤務経験のある新聞記者。最近50年ほどの間の韓国の出来事がその背景とともに語られています。軍事政権を経て民主化を達成するまでの険しかった過程を読むと、社会や政治に対する成熟度が日本より高い理由が分かります。米国に対して主体的に自国の意見を伝えることができるのは、本来あるべき姿だと思い、つい日本の状況と比べてしまいます。

韓国の日本に対する複雑な感情の背景も知ることができました。これからまた何度も家族や友人たちと韓国を訪れると思います。行く前にはこの本をもう一度読み返すことにします。

 

吉井町の小さな本屋で坂口恭平の画集を買った

毎日行っている3年生の教室で体操帽子を拾いました。

名前を探したが書いていないので近くにいた女の子に聞いたら、帽子に鼻を近づけて一瞬で「○○さんの」と当てました。

これは「小学校あるある」です。

小学生の嗅覚、恐るべし。

人間は成長しながら野生の感覚を失っているのかもしれません。

HOSTEL AND CAFE FAROLITO

吉井町に行きました。

福岡市から高速九州道で1時間と少し。

杷木インターで降りたらすぐに着きます。

前に新聞記事を読んで気になっていた場所です。

古い町並みが残る風情のある場所ですが、過疎化のため町の活力が低下しかけていました。

しかし、古い町の建物を生かした再生プランが成功して復活を果たしつつあります。

 

昼頃に町に到着してすぐに行ったのは町はずれのレストラン。

店の前にはブドウ畑が広がっています。

地元の野菜や果物を使ったランチをいただきました。

MINOU BOOKS

町を歩くと、古い家を改修した宿、レストラン、カフェ、パン屋がありました。

本屋も見つけました。独自の品ぞろえのいい本屋です。

最近一番気になっている人、坂口恭平さんの画集を見ていたらどうしても欲しくなって購入しました。

この絵の魅力をどう表現すればいのでしょう。

思い出したのは、バート・バカラックの音楽。

バートが創作した旋律には、リズムにもメロディにも微妙なズレが仕組まれています。

覚えやすい美しい音楽に隠された小さな乱れ。それが強く人を引きつける。

坂口恭平バート・バカラックである。



 

コモンの「自治」論

アジア美術館のカフェで本を読んでいたら隣のテーブルにどこかで見た顔を発見。先輩のK先生でした。今は大学で教えているそうです。今日は、美術館で開催中の「水俣展」のボランティアスタッフとのこと。それなら、というわけで読書を中断して水俣展へ。

「希釈すれば無害である」と語っていた会社の幹部。「排水は病気とは関係ない」と証言していた有名大学の先生方。政治家も学者も役所も会社を応援する構図。現在進行中の「排水」が重なってきます。来てよかった。

 

「コモンの『自治』論」(斎藤幸平、松本卓也白井聡、松村圭一郎、岸本聡子、木村あや、藤原辰史)を読みました。

「人新世の『資本論』」の続きが知りたい読者に向けた本です。社会主義国家や社会主義的な政策が上手くいかなかった反動として、新自由主義的な政策が先進国の多くで広まりました。しかしそれは更なる富の集中をもたらし、格差と分断は大きくなるばかりです。解決のカギは「自治」。松村圭一郎さんの章にこんな記述がありました。「店がともに生きる拠点になる」「単なる商品交換を超えた店で育まれる人間関係」「自律的でありながらも他者に配慮する関係性」。これはテントセンブックスクラブで今、起きていることです。自分が関わっている活動は新しい「自治」につながっていました。

 

坂本龍一が遺した音

昨日はテントセンブックスの読書イベント。

13人もの参加者で店が満員になりました。

終了後にある女性から声をかけられたら、実は昔の同僚の娘さんだとのこと。

小学校教員をしているそうで、驚きました。

今日は東図書館のビブリオバトルに参加。

プロのアナウンサーのように話す方や、練習の成果が感じられる大学生、紫式部について語るご年配の男性など、世代も選書も多様で楽しかったです。

坂本龍一の《Forest Symphony》

坂本龍一が遺した音

宮崎駿監督は「アニメで一番大切なものは『音』です」と言った。

「絵は作れるけれど音はつくれない」だから音を採録しにヨーロッパまで行くことだってあるという。

私は映画「風立ちぬ」を思い出した。

自分がよく知っているわけでもない昭和のはじめの風景の美しさが、強烈に胸に迫ってきたのは、そこに監督の音へのこだわりがあったからかもしれない。

 

先日、山口市の常栄寺へ行って、坂本龍一の《Forest Symphony》を体験した。

これは、坂本さんがつくった音を聴きながら常栄寺の庭を眺めるというインスタレーション作品。

音楽というよりも音のように感じられる。

誰かが庭の玉砂利を踏む音や、風に揺れる木のざわめきとも溶け合う音。

自分がまだ存在しない過去、畳に座って庭を見ている現在、自分が消えうせた未来。

音を聴きながら、長い長い時間の流れを感じた。

常栄寺 山口市

 

子どもの言葉から「言語の進化」を考えた

連休初日は大濠公園のロイヤルガーデンカフェでブランチ。

ここは本当に居心地のよいカフェです。

湖面をすべる巨大な「白鳥」を見ながらコーヒーをいただきました。

夜は久しぶりの「中州ジャズ」。川沿いのオープンステージで山本剛トリオの「ミスティ」が聴けました。あの力強いタッチのピアノは健在。ありがとう山本さん、次の機会にはLPレコードを持参しますので、サインをお願いします。

 

「ことば、身体、学び 『できるようになる』とはどういうことか」(為末大、今井むつみ著)を読みました。

目次

第1章 ことばは世界をカテゴライズする

第2章 ことばと身体

第3章 言語能力が高いとは何か

第4章 熟達とは

第5章 学びの過程は直線ではない

 

ずっと気になっていることがあります。小学校の授業で子ども同士が教え合いをするときに、「ここをスイっと動かして、パッと下げれば答えが出るよ」などと言ってるのを聞いて、それでは伝わらないだろう、と思っていると、相手の子は「あっ、分かった!」と納得した様子で再び解きはじめることがあるのです。教師が多くの語彙を使って分かりやすく伝えるよりも、子どもが少ない語彙をその他の言葉で補って伝えた方がより効果的な場合もあるということでしょう。

「言語の進化について少しお話すると、最初は単なる音の模倣で、ジェスチャーとあまり変わらないようなものですが、ことばとジェスチャーのいちばんの違いは記号性にあります。 記号というのは、システムの中ではじめて意味をなすわけです。つまり、ジェスチャーは単体でわかりやすいのですが、一方、記号は、記号A、記号B、記号Cをどのように区別するかということによって、A、B、Cの意味が生まれます。」今井むつみ

子どもたちは少ない語彙を補完するために、自分たちで「ことば」を創り出して伝え合っていたのかもしれません。子どもたちの発する言葉を尊重しつつ「さんすうのことば」「おんがくのことば」「たいいくのことば」などとつないでいくといいですね。